■
え、なにこれすごい。
東外大言語モジュール
問い
○いつから〈社会が抜けた〉のだろう。
- この問いはもうちょっと洗練される必要がありそう。
- というのは、ここで〈社会が抜けた〉ということでイメージしていることは、文章のよみかきを通し自らのトポスを認識することなのだが、こう考えると都合のわるいことがいくらかでてくるからだ。
- 事実? 1920年代〜30年代には社会が抜けた実践が多かったというより、むしろ言語を契機として自らの環境を自覚させる実践には事欠かなかった。
- 推測? むしろそんなものが存在しなかった時代などあっただろうか、疑わしい。
- 言葉は伝達の道具であると同時に認識の媒体である。
- ある時代に突然「言語が道具であること」から「媒体であること」に変化するというより、どの辺りかで「媒体」として見るウェイトが変わるということだと思われる。
- 実践現場で起きている現象を説明するための神経心理学/解釈学・・・では、なぜパラダイムが変わった?
- あるいはこう問うてみよう。いつかCTスキャンが廉価になり、授業中に脳波をスキャンする仕組みができたとする。そうなれば実践報告に「何をすれば活発な作業ができるか」などといった実践報告が増えるのか。道具とそうしたことを是とする派閥が増えればたしかにあり得る。でも何かひっかかる。何を活動でつかませる(べき)か、こう聞かれそうだから。
- そもそもこういう問い――何を活動でつかませる(べき)かという問いが出てきたのはいつで、何故そうなったのか。
- 大正自由主義? 教育雑誌? 後者だとしたら、現場オリエンテッドの記述が増える媒体ができたからではないか。
→教育雑誌のメディア論を、やらなければいけないのではないか。
■
だああ、打ち込んだものが全部きえたぁ。
- スランプ。
- 厨房流「自分探し」こじらせ中。
- 昨今はやりの「問題解決能力」の教えに従い、自分のできることとできないことを分けてみる。
- 少なくとも「労働経済学」や「ジェンダー論」でトップランナー気取るのは無理。だいたいその手のトレーニングほとんど受けてない。紹介はできるにしても、だ。
- メディア・リテラシーとか今の時点で興味ない。
- 読むことの理論? 草生える。
- 実践研究をベースにするって口でもないんだよなー。
- 国語教育史とメディア論の接点、ならどう?
→これならメディア史“お勉強”しつつ教科教育にも反映できるっぽい。
- 自分なりの軸足というか専門性も担保しながらイケるのか、な・・・?
- 教材史とかも社会学っぽい観点から切っちゃいたまーにマターリ実践講釈たれるというプランも広がってくるかな。