年金制度と選挙

考えるに当たって、単純な比較から始めてみよう。

  • 八百屋に大根代を払う場合は「モノ」を買うが、
  • 政府に年金代を払う場合は「信頼」を買う。


 社会は様々な「信頼」で動く。「信頼」といえば聞こえがいいが、ナイーブな言葉遣いをすれば、人々が抱く「幻想」ともいえる。しかしこの「幻想」を駆動させながら社会が動いていく。人々はこのように、人々のあいだで共有される意味によって世界を見通し、それによって心を動かし、または行為する。


 今回の自民党議席減の一端は、政府の展開する年金対策に対する「信頼」が様々な形で崩されたことによるのでしょう。充分な議論をしなかったこととそれに伴う強行採決、議論の基になるデータの誤謬(出生率1.29の、いわゆる「後出しジャンケン」)など、「信頼」の崩壊は各種メディアで出される通りでしょう。


 しかし注意されたい。私たちが心を動かされ、また行為する時の動機ともなる「信頼」の調達先、これは「内容」と「形式」の両面から支えられて構成されていることを。年金制度で云えば「内容」=どのようなお金の取り方をし、どのようにそれを再分配するかであり、「形式」=制度を決めるに当たってなされた議論のありかた、議論に際して持ち込まれたデータの取り方・出し方であり、その「内容」と「形式」とが一体となって年金制度に対する「信頼」が立ち上がっている点だ。


 ここで一部メディアのように「選挙の争点が『形式』に焦点が行き過ぎて『内容』の側面が等閑視されている」と言い、これからの課題として提示することもできよう。しかしながら私がより危惧するのは、むしろなぜ「形式」への注目へと人々を駆り立てているのかということだ

 
 なぜそう言えるか? 何かしらの圧力がかかっていなければ「内容」へ言及するか「形式」へ言及するかは五分五分の確率で起こるはずなのに、選挙の論点は明らかに「形式」の方へ向いていた。だとすれば「形式」を語らせる選択圧がかかっていることになりますから。


 社会が専門分化して、「内容」自体は複雑性を増す。そのことによって(政策集団と官僚を除く)多くの人々は「内容」それ自体の議論をフォローしきれなくなり、より人々にとって言及しやすい「形式」に注目していかざるを得ない…。


 近代社会が前提としてる社会における主体は、(外部からの圧力に影響されない主体像を前提にするか、自らが属す集団の利害にかなっているかどうかを吟味する主体像を前提にするかは置いておいて)「内容」を吟味することによって合理的な判断をするといったことだとされることがタテマエだと思いますが、実は近代社会が成熟していくことによって、その前提が掘り崩されるというパラドクスが起こりつつある――今回の「年金制度と選挙」は、はからずもこの事態を露呈させる1つのエピソードなんでしょうね。


 さぁ、あなたはどうする?