読者

○○大学前で、去年の生徒さんとその保護者さんに会う。生徒さんは○○大学の附属病院の通院後で、しばらく前に足をけがされていたらしく、保護者さんが同伴なさっていた。現在は術後の経過をみている、とのこと。


 30分ぐらい(だったかな?)○○大学の門で話しこみました。


 私の授業をもっとも楽しんでくれた子で、わたしが学校を去るときももっとも残念そうにしてた子が、この生徒さんだった。そんなわけで会うなり「先生(あえてうれしい!) またもどってきて!」と懇願される。新任の先生が「文法の授業は△△先生にやってもらうのがベストなのは重々承知なのだが(以下略)」と仰ったとき、「そうだよねー」と言い合ったことを教えてくれたりとか、同じクラスの(私の)ファン層のこととか、みんな待ってるってこととか……私は今度の文化祭に行く、と約束するのが精一杯だった(戻るも何も、そんなことは私自身が「どうこうできる」問題ではないからである)。


 それでも、もっとたぶんいっぱい言いたいこと、私に対してぶつけたいことがあるんだと思うし、じっさいそういう様子なのだ。わたしはこの時間が永遠につづいてほしい、そう思った。


 ちなみに、この子はずぬけて「できる」子である。テストの点数はいうまでもなく、授業での「身の乗りだし方」が全然違う。取り様によっては誤解の余地がふんだんにある私の授業の様子を、熱心に保護者さんに話してくれて、その保護者さんまでファンにしてしまうという点に至っては、ほんまに中1かいな? と思うほど。保護者さんも「子どもがほんっとうによく話してくれるんですよ〜 一度先生とお話がしたかったんですー」……いやー、すんません(いろんな意味で。わたしはそんな祭り上げられるほど「すばらしい」人間でも教員でもない)。。


 で、なんでこんなことをこのブログ上で語らなければいけないか。それは表現したかったからである。まず、「読者」に逢えた喜びを。そして私のやる「べき」ことをもう一度確認したいという、自分自身の思いを。


 「読者」。授業の受け手である生徒を比喩った、そんな「生っちょろい」意味ではない。本当にわたしの論文を読んでくれた「読者」なのである。勤務校でのとりくみを綴った、超スーパー規格外の論文の資料を提供してくださった縁で、論文の別刷りを渡した子なのである。そして何と、親子ともども読んでくださって「超おもしろい」といってしまう、ほんとうに、もう何なんだか。ちなみに超スーパー規格外といったのは、とりあえず「枚数」のことを指してである。内容については、読者が判断されればいいことだと思っているので、ここでは何もいわない。


……うれしい思いと同時に、「この子がいる限り、そしてこのような読者がいる限り、私は研究をやめられない」と思ってしまう。これが「思い込み」であることは百も承知である。しかるに、保護者さんは私の拙文を読みおもしろがってくれるし、授業をうけたいといってくれるし、何よりも今度出す商業雑誌論文のことを話すと、「え、それってどこで手に入りますか」といわれる始末。。。。。いや、送らせていただきますよそんな(苦笑)。そしてその子は年賀状で「毎日の授業を楽しみにしています」と書いてくれ、最後の感想文で紙いっぱいに、私への思いをぶつけてくれた。

 
 今もその年賀状を、とっておいている。忘れちゃいけない、と思うから。そして書かなきゃいけないと、思うから。私の物書きとしてのアイデンティティをぶつけた「あの論文」をまともにうけとってくれる人に、やっぱり報いなきゃいけないとも思うし、そして何よりも私の思いをぶつけて、それが社会の役に立つのなら。


離任式でいった私の思いがある程度「市民権」を得る、その日まで。