昨日はG大にて読書会×2→その後A先生と歓談。ルーマンの自己言及システムと、社会学を語る視線と文体について(早い話が、日記→id:ktamu:20040422のことについて)1時間半、有意義な話を。結局あの話は

  • 制度から離れようとしたものを分析したところで、落とし所は(「分析」をかけたら)結局「制度」ならざるをえんや? ただし「××は制度でない!」という人たちのレトリックや正当化戦略などなど、説明すべきこと(研究対象として残されていること)は結構ある
  • 結論が国民国家論でも、論のプロセス/歴史記述の「厚さ」で勝負することはできるかもしれない。但し先行研究を振り返り、今までの歴史記述(=早い話、修士論文を書く際の「禁じ手」、つまり今までやられてきた→いう価値nothing)を学ぶ必要あり。
  • 2次資料の多用は読者をうんざりさせる。

というところで折り合いがつきましたが、結局、本はあまり(ウソ。全然)読めなかったが参考文献のこと含め、これからの研究の展望が見渡せた気になることができる。多謝。

 ルーマンのself-reference systemにおけるelement, codeの位置づけがどうなっているのか(→codeがシステムから内生するのか/外部から生成するのか)、ルーマンのシステム論にルーマンのシステム論を当て嵌めたらどんな結論が得られるか、んでもって、それ(ルーマン流のシステム理論)がどのようにmedia studiesに絡むのか、ルーマンのself-referenceは自己正当化の云いではないか……これらの論点についても貴重な示唆をいただきました。っていうか、応接室みたいなところに通していただいただけでも恐縮しまくりなのですが……ありがとうございました。他人の借り物でない自分のコトバで理解し、表現するために、もう少し社会システム論で修行する勇気がわくなり←コロ助口調。