某氏から薦められた『青年の誕生』(木村直恵)を読破。


 端的に「うまい戦略だ」と思った。シャルチエの領有(appropriation)概念を利用して青年/壮士の二項対立がどのような位置価を担わされているか、青年的なるものの実践とその帰結はどのようなものかということについて分析している(→それゆえメディア実践として『国民之友』の模倣について分析することにはなれ、『国民之友』をメディア論的に捉えることを必ずしも詳細に論じる必要がなくなる。よって「メディア論的には……」という本書への批判は的を外し続ける)。探求は以下のような結論に達する。

「青年」たちが〈準備〉として意識し、また言明している実践とは、政治的な領野へと容易に突出しかねない、政治的な志向性を持つ主体に対する訓練と矯正を行なうものなのであり、かくしてそれは、身体に対して、時間に対して、そして毎日の慣習化した動作や行動と、それを規定する精神のあり方、思考の仕方といったものをすべて包囲しながら、非政治的な主体としての「青年」を生産するものとして機能するのである
『〈青年〉の誕生』木村直恵 pp. 265-6

 たしかに青年/壮士という言説レヴェルに注目し、その位置価を探ろうとしている点、私には(昔とった杵柄、文学的で)懐かしくも思う。しかし、制度的文脈に落としていないわけでは決してない。むしろ要所要所で「青年」的なるもののメディア実践の可能性/限界を穿つ所など、適切に言及している――そう、「適切に」。抑揚が効いていると言い換えてもいい。制度に落とすベタさを感じさせないやり方、とも思う。それは制度に関する言及を最低限に留め、分析と実践の記述を厚くするという文体のせいかと推測(→「制度に落とす」云々にナーバスになってる理由についてはid:ktamu:20040422を参照ください)。


 賛辞は最大限に贈りたい。ただし「手放し」で絶賛するわけでもなく……ほんとに「青年が先、少年が後」(cp. pp. 363-5)なのかなぁ? と素朴に思ってしまった。教育学部出身としてはこの辺、教科書のメディア論を語る上でも実証してみたいところ。自由民権運動を脱政治化するために少年(あるいは、子ども?)を教育学的に再構成することの一例として、教科書を正当化するためにそれ(=少年/教科書)へのスケープゴート(子どもは××だからこんな教科書じゃだめなんだ! 的な言説)が起こるんじゃないか? と睨んでるわけです。


 文学・音読と黙読・教師・メディアリテラシー・挿絵……数を上げればキリがないが、これらの観念なりマテリアルを脱政治化−再政治化する往復過程の中/運動過程の中に教科書を置いてみること。そしてこの過程を可能にしたメディア環境を分析すること――こういう方向性も「教科書のメディア論」としてはあり、かな?