:介護団体と自己啓発本

 Sゼミの本日の発表、ケアの社会学。「痴呆」(=以後、ひらがな表記)について知らない人と知ってる人とでディスコミュニケーションが起こる。


ちほうの方を介護する苦しさというのは、単に社会学的に言う「意図を持って行為する人」として彼/女の行為を「予期」することが能わなくなることにあるだけではない(それなら子育てと類型化する)。ちほうの方は「とある所」ではまったき介護が必要なのだが、「別のある所」においてはまったく正常だったりするところにある。たとえばトイレをうまくすることができない(=排尿行為がうまくいかない)にもかかわらず、自尊心があったりする(=「私はおもらしなどしない!」と頑として言い切る)ところなど。そして更に難しいのが、どうも現代医療をもってしてもどの順番でどこが「こわれて」いくか、説明が一切出来ないらしい。
それゆえ介護するには2通りの戦略がある。

  • 福祉的に「おかしい人」とレッテルを貼る。これは他者理解の不可能性を縮減する効果は絶大なのだが、それこそ福祉国家の悪夢よろしく、非人権的介護がまかり通る結果を招来してしまう。
  • 理解不可能な他者と向き合う。つまり、ちほうの方を理解しようと常に試みる。しかしこれはちほうの方と付き合う性格上、つねに失敗が運命付けられている。介護者および介護者に依存された人は、かなり、ツライ。


そこで人々は、セルフヘルプ・グループ(介護者版)に参加する。別に介護のノウハウを獲得するわけではない。たとえグループの建前がそこにあっても、明らかにそれだけがグループ参加の「効果」として参加者に受容されているわけではない。つまり、自己が紡ぐ介護体験の物語を聞いてもらって、「自分(の話)が承認されている」という事実性を得ること、これが真の参加「効果」である(=ウルトラにまとめると「癒される」)、と。
議論は続く。いや、話を聞いてもらうことによって「癒される」だけならセルフヘルプ・グループじゃなくていいんじゃないか? とツッコミ。あたしゃつい擁護に回りましたよ。いや、ポイントは2つ有りまして

  • 特定のコミュニケーション接続を引き起こすメディアとして、「グループ」が存在している
  • 物語の成立を支える他者が、「グループ」という形態(それも出入りがかなり「ゆるい」らしい)ゆえ複数担保できる


この場合、特に後者が大事です。なぜなら付き合ってる相手は予期不可能な他者で、それもいつどの部分が「おかしく」なるか分からない人です。これすなわち、一度安定した物語がいとも簡単にゆらぐ契機がいくらでもあるということですよね。よって介護者が「癒される」には、物語を受け入れる他者は複数担保されなくてはならない。ある時点で他者に受け入れられた物語は、ちほうの方を対象にしているゆえ、いずれ崩れる。よって崩れたら新たな物語を受け入れてもらうべく、別の他者が必要になるって寸法です。ここにちほう介護者の「癒し」の場が「グループ」である蓋然性がある、と。

(余談)私としてはそのグループが「癒し」機能を高い蓋然性で作りあげる場の力学を分析してほしかったのに、それがないのが残念だった。そのような場の力学として「語る時間の確保」「介護の個別性を重視する聞き方」などが挙げられると思う。


 さて窮理なり。セルフヘルプ・グループにおける「語る時間の確保」と「介護の個別性を重視する聞き方」、自己啓発本ではそれに対応するものは何ナノかな?