午後イチは『想像の共同体』の序&Ⅱ章。交通の発達+出版資本主義&土着語(国語)による出版・流通→想像の共同体→国民国家の生成、という図式に改めて驚嘆。しかしながら今のプチ・ナショナリズムイラク問題、スポーツ・ナショナリズムはこの『想像の共同体』図式をもう一度鍛え直す必要がないか、とも。キャンバスを移動して自由発表×2で激しく議論。論文を書くときのレヴェルの低さでは決してない、例の「書いていく中で当初の問題設定と現実に行っている実証のズレでトラブっている」報告、「言説のレヴェルを分析していたのに、(いつのまにかその手続き抜きで)歴史的実存に短絡させて説明してしまうため、野蛮な」報告を見て身に詰まされる。


 しかしながら今日はそんなことより「自分の研究(=国語教科書の受容空間の研究)が社会を反省する上で持つ意味とは何なのか」を、ずーっと考えてましたよ。それを考えたのは『想像の共同体』ゼミにおいて、レポーターの問題意識について議論する過程でなんですが。


 国語科教育専攻であるレポーターの問題意識はこうです。

「国民」あるいは「国家」が想像上の文化的人造物であるという指摘は非常に明快である。しかし、そうであるとしても、私自身を含め、もはやこの想像を払拭することは不可能だろう。そもそもこの想像の人造物は払拭する(しようとする)べきなのかどうなのか。(以下略)

 私はそれに対して以下のようにリプライしました。

  • 「存在(…である)」から「当為(…すべし)」は論理的に導けない。
  • 当為を論ずるときに言説の資源として用いられる国語/国家/文学/子ども/自分自身のアイデンティティなどの象徴(=レトリック)は、よってすべからく語られる文脈によって変形された上で、コミュニケーションの生起する場所に現象する。
  • よってそのようなコミュニケーションの場においては「誰にとっての」ということが衝突する、いわば闘争のアリーナと化す
  • ゆえに、「そもそもこの想像の人造物は払拭する(しようとする)べきなのかどうなのか」という問いは、国家を押し付ける国民国家や国語、その他諸制度が遂行していることと論理的に同様の効果をもたらす。

 しからば『想像の共同体』を(国語科教育の人間が、ひいては私たちが)学ぶ理由って何でしょう? 発言を求められた私は(そもそもそういう質問が来たら「黙る」という戦術もあったと思うが、それは私の中の「何か」が許さなかった)ついついこう応えてしまったのだ。以下の発言は倫理的に最低だが、半分マジで応えたフシもある。

「いやぁ、国語とか文学とかがいかなる装置を使って生徒を苛めているかを研究して、効率よく近代学校装置をオペレートするためだよ。合法的な苛め方を知っておけば学級崩壊も起こらないし、教員として評価もされるでしょうが」

 …しかしだなぁ、何と「たまらなく虚しい」答えだろう! 「国民国家論は、単に国民国家の仕組みや機能を明らかにしてきてその歴史的変化をたどるだけでなく、それをいかに乗りこえるかという問いを含むものである」(p, 288)と西川長夫『国民国家論の射程』は述べる。そうでなかったら研究の有用性、あるいは学問が社会の中にあることの意味をどう説明すればいいだろう。


 しかしどうやって「国民国家」を脱構築するのか? 国民国家の担い手たちは、おそらく「おまえ、抑圧してるぞ!」という批判はやすやすと受け流すだろう。たとえば教員に向かって「国語は抑圧だ。差別だ」と言ってみるがよい。ためらいの後、いや、ひょっとして何の躊躇もなく「…抑圧で差別ですが何か?」と応える。間違いない(長井○和)。しかしながら逃れる「べき」ものとしてクレイム申し立てをすること自体、所領安堵闘争、すなわち彼/女が持つ「正義」のぶつけ合いとなり、とたんに闘争のアリーナと化す。悪く言えばオナニーとしての「正義」のかけ合い。白濁する視界は「存在の金切り声」、すなわち認識論による存在の抑圧を引き起こす。


 闘うための翼がほしい。しかしそれを「正義のぶつけ合い」にしないで。そう思ったとき考えたこと――国民国家論を脱構築するためには、国民国家論で扱うと一見整合的な、「いかにも」な事象を、国民国家論の枠組みでは論理矛盾や限界があるため分析できないこと、これを示せばいいのでは? そうすれば「正義のぶつけ合い」をすることなく、それを乗り越えるための「翼」を、遂行的に作ることができるのではないだろうか。


 絶望に打ちひしがれたその時こそ、私たちの旅が始まる。