:言説分析の方法

 言説というものが文学・社会学、その他領域でマジックワードとして機能している。よくわからーん! 表現と言説はどう違うのか? 知識社会学と言説分析はどう違うのか? 


 まず、知識社会学と言説分析の違いから。

  • 知識社会学は【社会構造と知識の循環関係】のことを言う。

 ここで知識社会学の始祖マンハイムの言う「社会構造」とは、平たく言えば階級のこと。つまり背後にMarxism(反映論)がある。


 一方、(フーコー的な)言説分析はこんな感じ。

  • 言説は【言説自体にそれを変える「力」をもつ〈知〉の総体】のことをいう。

 ここで言説を「文脈を持った言葉」だの、「表象の背後に流れている深層構造」だのと理解していると話が進まなくなります。それらの発想では「〈知〉の総体=言説」といった側面は何となく理解できても、「言説自体にそれを変える「力」を持つ」云々の所がどーしても理解できません。「文脈」や「深層構造」といった語句を持ち込むことにより、背後に確固として変わらない前提のようなものを持ち込んでしまっていることに注意してください。ゆえにただの「表現」とも「言説」は違いそうですね。


 言説自体に言説を組み変える力が備わっているということは、それだけで自律的な運動をするという〈知〉の編制まで指して「言説」と言っているわけですよね。それって再帰性じゃん、ということが分かればシメタモノ。再帰性とは自らの言葉や眼差しが自分自身を規定し、拘束するものになるプロセスを指します。そうすると言説とはつまり、

  • 文脈を持ち、再帰性を強いる表象・レトリック(喩)・制度の総体のことである。

つまり言説とは、特定の思考の枠組みを「主体」に植え付け、反復させるテクノロジーの云いである、というわけ。とすれば言説分析の方法とは、再帰的な自己言及(※「主体」を立ち上げるために行われる他者との区別=差異化が「主体」存立の基盤になっていることを指す)を強いるテクノロジーを描写することになるわけで、

  • 言説分析とは、ある特定の思考の仕方が発信され、それらが「主体」の書き方や読み方に転移し、認識の枠組みとして、前提として浸透していく様子を描写すること=とある眼差しが、眼差す「主体」の内面をも規定し、拘束する眼差しとして跳ね返る様子を描写すること(「どのように」の分析)、そして
  • テクノロジー登場の前提を問うこと(「なぜ」の分析)。たとえば「黙読」や「読みの空白」が再帰的な自己言及を誘発する一つの装置になりうる理由も、ここにありそう。

 いやはや、それをどう抉り取るかというのはやはり「ロクロの廻し方」的な側面がありますなぁ。各自探求が必要そうです。


 そして今日、いよいよ『大日本教育会雑誌』を調べ始める。最初はホントに全巻目の前にして一冊ずつ調べようとしましたよ(笑)。「目次集成」なるものがあるんですね。今は(笑)。明日は『教育時論』だ。