:言説分析(その②)

 ヴィヴィアン・バー『社会的構築主義への招待 言説分析とは何か』を(今更! といいうツッコミはなしでお願いします)読む。バーによれば、言説分析とは以下の作法により行われているという。

  • クレイムの構築を分析する:どんなロジックを用意し、どんなクレイムに接続しているかを検討する
  • 発話による社会的行為の遂行を分析する:人々がその談話や執筆によって行おうとしていること・達成しようとしていることに注目し、解釈する
  • 解釈レパートリーを特定する:メタファー・文法・言葉のあやを探すことで、どのような枠組みでクレイムを受け取らせようとする力学が働いているかを特定する

 これをid:ktamu:20040726で検討した作法と比較すると、以下の論点が抜けていることがわかる(そして、下の2つは今の私の論文に抜けているものでもあることが分かった。そして「制度化」に関してだけは、国民国家論も言及している所だと、省みた次第なり。しかしながら、たとえば安田敏明が展開する「〈国語〉言説の制度化」の部分は、レヴィアンが展開する「〈子どもの性〉言説の制度化」の部分より、読んでてスリリングに感じないのはなぜなんだろう? 違いを自分なりにもう少し考えてみたい所……しかし、私にそんなアタマがあるかな? コメント求む >All)。

  • クレイムの位置価の検討
  • クレイムの制度化の過程
  • 制度化による実践の構造化/差異化

 そもそも私は、いわゆる国民国家論的における教科書の描かれ方(例:国語教科書=イデオロギー装置としての「国語」を植えつける装置)に反発して「教科書はどう教員の実践に影を落としたか」を検討しようと意気揚々とし、教員が発したクレイム群からそれを解明しようとしたわけだった。


 しかし、いわゆる国民国家論と違うのだ、あるいは〈国家による教科書の位置づけ〉と〈教員の教科書観〉が××の点で「違う」ことを言うためには、学習指導要領なり教科書編纂趣意書なりから、教科書の編纂者・送り手側がどう教科書を演出しようとしていたかについて言及しないと、「違う」と言い切れないのだった。だから枚数が少なくなる。


 そこへ行くとやっぱ吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂)には、まだまだ見習うべきところいっぱいだなぁ……敬服。もっとも、民衆がどう都市を体験したかについてという点、氏の実証の論点として「序章で「出来事」を対象に据えると言いながら、どこまで「記号」的アプローチから差異化できているか」ということは心に留め、自分にフィードバックしていこうと思うのですが。