:欠如を含むシステム①

近代的な「主体」にとって「他者」はつねに客体であり現象であるにすぎないため、近代的な「主体」を前提とする議論では相互主体性(&それらが構成する社会的なるもの)は厳密な意味では捉えられていない。ところで、人間における社会性→普遍性を見出しているのは「主体」なのだから、どどのつまり近代的な「主体」のロジックでは、普遍性=各自の個性となります。それゆえ、そのときに言及される社会的なるもの(→普遍的なもの)とは、人間であれば誰もが有するものとして=内的強制力をもって従わなければいけない、(自分が見出している)普遍的な道徳法則のことと同義になっていく


近代的な「主体」理論を内面化した私たちは、社会を考える際につねにかような「道徳法則」を構築した。そのような道徳性を後ろ盾とすることで、そのような「道徳法則」を身につけるべき人を探し(魔女狩りに似ている)、そのような人たちの性質を数え上げる。つまり、「道徳法則」は再帰的に構築される。


「法則」? 何だっていい。たとえば「男はバカだから男子校で教えるほうが女子校で教えるよりも簡単」的に、社会を説明するために見えない法則をでっち上げ、遡及的にレッテルをはればイッチョ上がり。これと同じやり口が社会的に相対的に力のある集団の利益に適っていて、社会がその集団によって組織化され、運営される仕方としてその「法則」が適用されたら? 区別が差別に転化する契機になりうることを注意せよ。(……先ほどの例の「男」を「女」に換えてしまえば、ほら! 私たちがそのようにある物事を特定の仕方で定義ないし表現するとき、私たちは権力をもたらす特定の「知」を作り出しているのだ。そのような視点から世界を解釈することは、それら集団間の不平等をもたらす。そしてその近代的な「主体」理論がかような論理に接続することに目をむけよ)


近代的な「主体」理論を廃棄して、ルーマン的なシステム理論にすれば差別解消! となるかどうかはペンディング。ただしシステム理論は新たな「問い」を誘発することはできる。近代的な「主体」理論では相互主体性・社会的なるものの位相は解けない。ならば、近代的な「主体」理論は、どのような予防線を張り巡らせて私たちの(日々起こっている)相互主体性・社会的なるものの生成を見えなくさせ、とある「法則」が信頼されているのかという問いを。