江戸時代を研究する①

文字の外的な性格(=書き言葉の一様性)が「話し言葉の多様性」と「エリート集団の特権性」と組み合わさって、神秘的な力を発揮するように見せている(cp. 大澤真幸『電子メディア論』)という論は、どこまで説得力.....というより、説明力があるのか。

  • そもそも言葉とは、「共感あるいは共苦の感覚」が帰属する超越(論)的な身体が存在しているかのような擬制として働いた図像表現(端的には「刺青」)を基にし、
  • そのような「共感あるいは共苦の感覚」を妥当なもの(=相互に「規範的」と認めることで)承認する

要は、みんなが同じような「言葉」を使っているからその「言葉」は一定の意味を持っていると考えるわけですね。

  • ただし、そのような超越的な審級は、実は内在的な経験の作用である、
  • ゆえに記号が表示する「意味」が多義的になる

早い話が、ある意味Axでその「言葉」を自分が使用して、とりあえずその「言葉」を使ってディスコミニケーションが起こらないから「言葉」の意味一義的に見えるのであって、実はその「言葉」の使用はAxでもAyでもなりうる........ゆえに記号表現としての言葉は多義的になる、と。

このとき言及の俎上にある「言葉」とは図像としての文字言語である。としたら、「話し言葉の多様性」は文字言語といかなる関係を結んでいたのか、これが問われなくてはならないはずだ。「話し言葉の多様性」という言い回しには、話し言葉を(書き言葉と同じように)単位化=規範化できるとする前提が忍び込んでいる。が、それはどのような言説編制の下で可能なのか?