系譜学と考古学

以前は「(フーコー的な意味での)考古学では「原因探し」ができないから、考古学は棄却して系譜学に移るべきなのだ」みたいなことを書きましたが、最近はそう思ってません。なぜなら「原因探し」、つまりどうしてある現象が他の可能性を抑えて登場したのかを考えることなど出来ないからということが分かったからです。


文章に残ったものは文章に書くことが前提であること、ゆえにおそらく書いた人間がいることは想起できます。しかしその文章を記すことによって記述されなかったもの(つまり、記述されなかったその人の性格なり何なり)が消えてしまうゆえ、書かれた物からその人となり性格なりを想起することは欠如を代補する(=その人となり性格なりを、こちら側で補う)ことによる、想像上のものとしてしか形成されない。


よって、ある者のクレイム(=言及)からその言説編制は観察できるが、その言説がなぜ登場したかを「実証すること」は不可能なのだ。但し、このことによって「因果関係を考えて世界を処理すること」それ自体が否定されているわけではありません(→ルーマンの「因果プラン」の着想はここにあるかと)。