新聞の凋落?
情報がブロードバンド化されると、新聞紙はなくなるか? 新聞紙の「送り手」と「受け手」に注目することで考えて見ます。
(送り手の論理)
もしも新聞紙を毎日配らず、ネットでニュース配信を行うことができれば、利益率が増えるでしょう。なぜなら、一見すると私たちは新聞紙上の《情報》を消費しているにもかかわらず、《情報》と《販売》の原価構成比で、90パーセント近くを占めている《販売》コストが小さくなるからです。なお、ここで「ネット」とはPCネットとケータイネットの双方を想起しています。
そうなると、私のとっているML『ビジネス知識源』における以下の言及も納得できます。
放送局・マスコミ・出版社は、設備と販売網をもつ総合産業から分極化し、「プロダクション」に変わって行きます
では、「プロダクション」になること=情報のブロードバンド化=新聞紙がなくなることなのか? 新聞紙が受け手によってどう消費されているのかを考えてみる。
(受け手の論理)
- 紙であることの信頼
紙面に載っている出来事・事実が紙だと保存できるが、ブロードバンドだとどんどん更新されてしまって、どこにあるか探しづらい(web上から消えることもある)ということで、紙に信頼を置く向きもあるだろう。たしかにそういう感情を持っている人は多いかもしれない。しかし、これとて、もし技術が発達して「何年何月何日におけるこのアドレスの記事」が出せるシステムが構築されれば(現にある?)、この信頼はくずれるのだろうか。
- 一覧性
いや、紙面に載っている出来事・事実だけが《情報》ではない。たとえば新聞の一面にどれだけのスペースをとってるか(とらないか)で、ニュースの価値(社会的に重要か否か)を、日々私たちは勘案しているのではないか。だとすると、受け手にとって新聞の存在は、無限に起こっている出来事・事実を格付け、社会を見通す(認識する)装置として受容していることになる。よって新聞はなくならない。
しかしこれには二つの反論がありえる。まず、実際に新聞――ここでは『朝日』などの全国紙を念頭に置いています――はどのような読者層、とくに年代が受容しているかを考えていないのではないか、という主張(=若年層の新聞離れが減っているなら、いずれ新聞はなくなるのではないか?)。次に、無限に起こっている出来事・事実を格付けるのは、テレビのニュース番組も同じではないか、という主張だ(=テレビが機能的に代替できるわけで、やはり新聞はなくなるのではないか?)。