いまだ書けず…

研究計画はなんとか書きそろえつつあるものの、「自己評価」のパートが書けず、現在朝4時。提出まであと9時間…

ダメ出しされた「自己評価」のパートを追悼する意味で、upします。

  • 研究者としての自己評価


 私は、ぼんやりとしか見えなかった社会現象がくっきり像を結ぶ、あるいは「わかる」体験を経験し、人と共有することに悦びを覚える。このような体験を継続的に経験するためには、自ら学び、考えることを通して知識を創造する職業に就くことだと考え、研究職を志望した。

 社会の中にいながら、社会をよりよく見通すこと。よりよい見通しを可能にし、それを人々と共有していく経験を積むこと。このようなことに私は悦びを感じ、それを願う。私にとってそのような経験を積むための道具立ては社会学・メディア論であった。社会学・メディア論という道具立てを通じて現代社会を見直したときに、社会現象が「わかる」体験、ときにはこれまでとまったく違う社会現象の見え方が浮かび上がってくる経験をしてきた。しかるに、このような経験を専門家だけが独占しているのはもったいない、もっと人々と共有したいと考えるとき、それをやさしい言葉でわかりやすく言い当てる必要がある。そのためには、該当分野に対する質・量双方のインプットが必要である。よって私は、該当分野を執念深く掘り下げることのできるタフさと、その深さを平易な言葉で説明できる言語運用能力を備えた研究者になりたいと考えている。

 研究者としての私の長所は、壊されることを恐れないことである。研究報告でも自分の依って立つ論理や背後仮説の妥当性を指摘されたときも、必要に応じて多様な考え方や方法論を受け入れることをいとわない。自らの殻やプライドに閉じこもることなく、節目ごとで自分の依って立つ認識枠組みを破棄し、新たな枠組みや仮説を構築・検証することができる。
粘り強い・へこたれない一方、あるところでは楽観的に構えることができることも、研究者としての長所として数えられると考える。研究者の就職難が叫ばれて久しいが、私はリスクを覚悟してものごとを行う、あるいはリスクそのものを楽しむことができる。おそらく、何事にもへこたれないことと楽観性をもつことは、相補的なものだろうと自分は考えている。いずれにしても、忍耐強い一方で楽観的に構えることができることにより、自分で考え、独創性をいかんなく発揮する素地があると自己評価している。

 社会学・教育学に関する深い造詣があることも、研究者としての長所である。教育学部生であったころから社会学のゼミに参加し、学際的な研究を続ける基盤を養ってきた。そのため、教育現象を自明化するのでもなく、だからといって批判に終始するわけでもなく、教育システムを社会的相互作用のなかで生成した、実定性をもった意味体系として扱い、構造分析することができる。
幅広い知識と同時に、新しい知識の吸収能力もある。英語・ドイツ語を扱う能力もあり、外国文献を必要に応じて読みこなすこともできる。とくに修士論文においては、この能力が必要だった。なぜなら学校教育における言語の地位を論じる社会科学的文献が、日本には皆無であり、英米カルチュラル・スタディーズの成果やフリードリヒ・キットラー『書き込みのシステム1800/1900』を読む必要があったからである。
二つのディシプリンをもつこと、語学力があること、これらのことも研究者としての長所として評価できると考えている。

 これらの能力は、すでに学部時代から評価されてきた。卒業論文は国語科(国語科教育分野)に提出したが、そこで最優秀の評価を頂くことができた。その結果、国語科教育分野の代表として、国語科の第三学年全員と国語科教員すべてが集まる場で、卒業論文プレゼンテーションを行うこととなった。また、修士論文でも査読段階から副査の先生方(●●教授・●●教授)から高評価を頂き、優秀な成績で博士過程に進学することとなった。また、博士過程に在籍する現在では、研究室運営を一任されている。現在、研究室の修士一年、研究生10名を対象に「基礎ゼミ」と称し、文献購読ゼミ、論文指導ゼミの企画・運営を行っている。所属する●●●●の留学生TAも同時に行っている。