自己啓発と自己否定

今日のゼミはT君の論文発表。興味深かったのは、ネオリベラリズムという用語が流行る現代社会に身をさらさざるをえない人々の感情世界のこと。

昔は金を稼ぐ他にも、廻り三軒両隣とかいった「地域共同体」にコミットするとか、家に入って専業主婦になるとかといった方法とか、ケッコウ多様な身のおき方が許されるようなよのなかだったような気がする。しかし核家族化とバブル崩壊、女性の社会進出とがあいまって、世の中、金を稼がなきゃ負け組で、稼げないやつは自分が悪いといった風潮が強まってきている。


女性の社会進出が悪いといってるのではない。男女の平等は確保されるべきだと思う。私が問題にしたいのは、就職という「パイ」が不況と産業構造の変化とあいまって少なくなってくるため、金を稼げない、「パイ」にありつけないといった意味での《負け組》が否応なしに増えること。そして、《負け組》となるのは(産業構造その他の社会的要因を度外視して)そうでない人とちがって努力が足りないから、自分が悪いからと諦めさせるような風潮が存在しないかということ。


この現象がむずかしいのは、《負け組》と思い込まされている人々にむかって、「社会が悪いんだから」といったところで、あまり癒しにならないところがあるところだ。だって、「かち/まけ」いったニ文法が成立するには、業績主義ルールそれ自体にはコミットするといったことが前提ですから。《負け組》の人が、やれ私有財産認めない、やれ結果平等ドンと来いなんてことは、たぶん言わないし、そんなこと望んでない。そんなわけで「社会が悪い」「業績主義ルールが悪い」とはなかなか言えず、《負け組》に甘んじているのは自分の努力が足りないせいだと思い込む。そうして騙しの無限連鎖がおこる。自分が悪いから《負け組》になり、《負け組》だからどうせ何もできないんだ……自分がダイッキライ。ストレスを抱え、抑うつというレッテルを貼られながら《負け組》としての人生を突き進む……。


《負け組》だからできることがある、と考えればどうだろうか。詭弁ではない。業績主義・市場至上主義の「ネオリベラリズム」からこぼれ落ちた人々を掬って/救っていくような発想。公務員とかNPOとか、経済・業績とは異なった自己肯定のありかたを、多元的に追求する。そうすれば、いまここで自分が「努力できない・だからダメ」と言って自己否定するのでなく、だからといって未来において頑張った理想的な自分が過去「努力できない・だからダメ」と言った自分を否定するのでもなく、ダメな自分を肯定することができるのではないか。


80年代に活躍したThe Blue Hearts。彼らに今こそGuten Tag、終わらない歌は今こそ謳われるべきなのだ。だからー、言ってやる! マイクロフォンから言ってやる。でっかい声でいってやる! ガンバレ! 「『それでも』」と。



次善の策としての「リベラリズム」。