尼崎脱線事故 その2


あらためて被害にあわれた方々のご冥福をお祈りしつつ、生き残ってもなお苦しみ続けている方々のことを思うと、同情すると簡単に言えない何か重いものを感じずにはいられません。が、


この記事この記事この記事が出たことにより、過去このブログに書いたこれにオトシマエをつけ、わたしの中の違和感をふっしょくする必要があると考え、書きます。


(論点1:運転士はゲーム脳だったか)

  • 分析結果で得られた転覆限界速度106キロを上回る約116キロ(制限速度は70キロ)で現場カーブに進入して脱線。
  • ブレーキの操作状況から居眠りを示す事実はなかった。
  • 同社〔JR西:引用者注〕幹部は「120キロ以上でも現場カーブを回れると考えている運転士が半分もいたとは」と、衝撃を受けていた。

そもそも最後の点は、当時の安全推進部長が事故後すぐの会見で「置き石」説を立論するにあたって「現場カーブは、時速120㌔以上で脱線する設計である」とも述べていた点からも、運転士を含め相当数の人々にとって《常識》だったのではないか。ここから、私がここに書いた予想は的中。ゲーム脳でも何でもない。遅れをとりもどすためなら、116㌔=《常識》の範囲内と考えられてしまう背景があって、その《常識》のワクの内で、しっかり《ミス》をとりかえそうとしたのではないか((とはいえ、カーブ前で圧力をかければ遠心力がかかることは、銘記されるべきである)((1/29追記:指摘をうけて削除しました)))。


(論点2:《ミス》は社会的に作られたものか)

  • 現場カーブで減速するためのブレーキポイントも、事故調の試算で約100メートルも現場寄りだった。
  • 伊丹駅手前の旧型ATSの地上設備も誤って設置。警報音通りのブレーキ操作でも約101メートルオーバーランしてしまう状態だった〔事故直前、伊丹で72メートルオーバーランしている:引用者注〕
  • ダイヤを作るコンピューターのデータも間違っていた。電車は日常的に遅れ、運転士作成のメモ通りに走っても常に11秒遅れとなった。


そもそも事故や逸脱行為といった《ミス》を起こすよう運命づけられているハードの設定があって*1、で、おなじみの「定時運行さもなくば日勤教育」という流れ。運転士追い込まれてんじゃん。こうした背景があって、現段階では運転士が「快速電車として折り返す際、運転席で特殊な機械操作を行い、車掌の動向を知ろうと列車無線を傍受できるようにし」、「宝塚のミスを考えながら伊丹のオーバーランを起こし、運転席で傍受中の列車無線に聞き耳を立て運転に集中していなかった可能性があるとみている」とのこと。これについても、私がここに書いた予想は、運転席で特殊な機械操作を行ったこと以外は的中。運転の直接の原因が運転士の異常運転にあったことは十分かんがみつつも*2、それに追い込む社会的状況があった点で、《ミス》は社会的に作られるわけだ。だからぁ、災害情報学っていう学問がぁ、成り立つんだ。


マスコミは何か事故や問題があったときに安易に個人叩きに走るのではなく、個人をある状況に追い込むものをこそ、その力と財力を使って、クリシエを使わずに徹底的に暴いてほしい。それができるのもマスコミしかないんだろうから。

*1:言い回し強すぎる?

*2:近代社会のフォーマットでは、個人に責任を帰するという文法が支配的にならざるを得ない