:番外編→望みは癒しか挑発か? 解けしときこそ進化を遂げよ!

 昨日のゼミ、発表自体は子どものプレイパークを運営する大人たちのネットワークを社会学するという趣だったが、教科書という自分のテーマを語る際、身に詰まされた思いがした。


ネットワーク、あるいは社会運動を語る際、従来の社会学はこのような語り方をしてきた。つまり、

当該運動の「理念」(その運動体の目指すもの、共有されている「××すべし」)
〃  「属性」(女/男、エスニシティ、金満/貧乏etc.)
〃  「位置価」(研究対象が全体の中でどう位置づけられるか)

これらを分析して一丁アガリ。しかしこれは次の①②に陥りざるを得ない

①「制度」の発見と告発→権力論(Ex. 自由の権力! 言って戯れる)
②「その理念は普遍的だ」とクレイム→変革論に落とす


②は論外として(だってイデオローグの生成と一緒だもん)、①は属性と位置価を測定した時点で「制度」に還元してしまう――社会を反省する学として誕生した社会学が、社会を回帰的に再生産(捏造?)してしまう――という罠(=野蛮さ)が、そこにはある。

 もちろん、フェミニズムなどこの語り方が必要な面もあった、それが悪いといっているわけではない。しかしこの語り口(=「総てはできあいの制度や言説によって語らされている」という、世間ではフーコーインパクトと誤称されいているやり方)、私はもはや「死に体」だと思う。「最初の数行を読んだ途端に浮かび上がってくる国民国家批判。こうした先読みを誘導する論文はもはや読者によってネタでしかない。こうしたネタの差異が論文の価値を決めるという転倒が生じてしまうのかもしれない」(by id:oxyfunk氏)。研究が進むとパターン化を免れ得ない。

 その意味で彼の指摘には禿堂(=激しく同意)! なわけだが、私のやってる教科書、言ってみれば制度そのまんまなわけで、それを「作られた」とか「制度!」と言っても、もう修士論文として芸がないんじゃないか?

(余談)社会学に魅力を感じる人の多くを引き付ける「いままで当たり前と思っていた××も、実はコウイウ社会制度に囚われてたんだよ、キミはこういう制度の下語らされているんだよw」という語り口。これは私にとっても魅力的だったし、ぼんやりとした現象がくっきり像を結ぶような爽快感がある。

しかしこれ、「ぼんやりとした現象が分かる」のところを「いままでなんとなく(そんなに合理的でないのに)習慣でやってきたことに明快な〈合理性〉があるんだ!」という、ある種の〈癒し〉というか、地に足着いてない実存がはっきりと居場所が与えられたような錯覚に堕してしまう瞬間がないか? わたしは社会学に癒しを求めていないか…? 「自分で考え、行動し、その結果に責任を負う覚悟で生きる」といった学校的主体性のカウンターから〈癒し〉として社会学を求める人々がひょっとしたら増えているのではないか…? おっと。

 制度の持つ狡猾さを冷徹に見極めながら、それでもなお制度にまとめてしまうことを遅延する研究のプロジェクト――「いかにメタをやめるか」――のための〈作法〉のために。さしあたりこんなことを考えている今日この頃。

  • 当事者なり分析対象がいう「私たちがやっているのは××という「制度」でない」という語りを捉まえる。それは否定形でしか語れないのだが、その、「制度」からずれていく何かとは何か、あるいは「ずれるということは何事か」を問うこと
  • 単線的な制度論でなく、2者(ときにはそれ以上)のヘゲモニー争いの過程を描くこと。そのヘゲモニー争いをさせるそれぞれの合理性/実定性を問うこと。
  • 変化を、対照を、描くこと。その過程を描くこと。