良い仕事は、良い休日から?

「何で自分はやる気をマネジメントできないんだろう」と考えていたら、仕事人と大学院生ある条件の違いを発見。大学院生は毎日が学生気分なので、裏を返せば、仕事と休みの境界があいまいだ! 


で、今日からオフの日を作ろう。バイト(塾講師)が火曜と土曜にあるから、日曜日はオフ、そんでもって彼女と遊ぶ日を他に一日オフの日として作って…おおめでたく週休二日(笑)。これでめでたくビジネスマン気分、明日から仕事バリバリこなすぞー! ……ん?


なんかヘンだ。そう思うと疾風怒濤、この思考のヘンさに気づく。以下列挙

  • 同じような考えを二ヶ月前にした。で、また同じことを考えている。
  • そもそもビジネスマンと大学院生を対比しているが、ビジネスマンもスキルアップだとか資格をとったりだとか、めいめいセルフマネジメントに明け暮れる時代だと聞く。
  • そういえば私って、セルフマネジメントを半ば趣味みたいにしてない? 英語学習、ウォーキングとサプリメントによるシェイプアップ、摂食制限…
  • そういえば世の中みんなそんな感じじゃん? ダイエットとか健康ブームとか…


どうも私(たち)は、セルフマネジメント=体の/心の健康をこそ、維持しようとするようだ。で、なぜ健康を維持しなければならないのか。


健康であるということは、不健康でないということだろう。では不健康って? 不健康になると仕事ができない、遊べない、ストレスが溜まるとか、いろいろあるわな。で、そうなると誰が困るんじゃ?


とりあえず自分は困る。他人もおそらく困る(不健康な自分とつき合わなくてはならない他者を想起せよ)。しかしその一方で、レジャー産業も、学校も、国も、資本制も、みーんな困るだろう(笑)。社会に不健康な人がいたらその組織や制度の効率があがらなくなります。学校の生徒と教師が年中風邪ひいてごらんなさい(笑)。


とすると、ひとり「俺は不健康でいいんだ、煙草吸って酒呑んで五十になったら死ぬんだ」とうそぶくわが師匠(……「制度的な他者」!)のケアはおいとくにしてもですね、タロットカードの「悪魔」よろしく人の心へ囁いて、健康を維持させようとすすめるでしょう(ちなみに、タロットカードの悪魔は人の心に囁くだけ。悪魔自身は何もせず、愚かな人間のみが悪魔の囁きに動かされるのです)。


資本、国家、学校。そいつらは人々に健康マネジメントを行わせようとすべく、人の心へ囁くレトリックを考える。だいたいそのレトリック近代科学的な知識で、《客観的な数値》をもとに「一日に摂るべきこれだけ栄養成分が必要ですよ」「摂らなかったときは××になりますよ」と、リスクを言い立てるんだな。で、それが制度的に構造化されると、否が応にも常態化する自己への監視。乗り越える方法は――あった。それを楽しんでしまうという方法(笑)。セルフマネジメントで勝ち組になっちゃえばいいって、そういうハラです。


柄本三代子さんという社会学者も語っていらっしゃいましたが(『社会学評論』2002、詳細は後ほど)、世の中簡単にできるセルフマネジメントのオンパレードです。たとえば歩き方。「××という歩き方で幸運を呼ぶ!」という精神かかったものから、「××な歩き方でうつ予防」といったものまで、日常生活のちょっとした一コマまで、なんと自己監視の檻に囲まれ(ようとし)てることか。かくして、自発的に健康になろう、セルフマネジメントしようという美辞麗句によって、自己監視の檻にとりこまれてしまうという罠――しかしそんなことは柄本さんの研究成果だ。わたしにとって問題なのは、

  • 院生の行う自己監視と、以上見てきたような自己監視は、同じか?


という問い、つまり院生であるこのわたしが何でマネジメントにあくせくしてるかだ。して、考えてみるに、私をとりまく構造化された言説は→「院生は、社会的にはフリーターである」という言説、そして「結果として、障害獲得賃金が見込めない」という言説、さらに「研究を進めないと(人より優れた研究をしないと)、アカポスにありつけない」という言説。言葉が違えど、似たような自己監視の構図はありそうです。


早い話が、「院生はリスクに晒されている」という言説に私は囲繞されていて、いくら「人に認められることによって自分自身のセルフアイデンティティが確立する」と言われても、ピンとこないんだな。