ジャーナリズムと国家権力の《結婚》

 産経新聞は、現状批判をするという社会的使命を自ら絶った。当然、ホリエモンこと堀江貴文社長のニッポン放送株買収に関する一連の〈そぶり〉を指してこういっている。どう問題なのか? 問題の本質を見極めるには、いまいちどメディアの過去を振り返った上で情況を考察する必要があると思う。


  • 「社会」の構造転換とメディア


 そもそもマスメディアを語るには、その出現背景を探る必要がある。話は多少時代をさかのぼり、封建制度の解体期まで。封建制度も時代が下るにつれ、ブルジョアジーが勃興。そのとき、ブルジョアジーが封建専制=「公」権力からの抑圧から守ろうとしたものがあった。自らの経済活動の場=市場と、プライベートな営みの場=社会である。そのような社会を自律的なものとして分節化し、それを封建専制という名の「公」権力からの抑圧から守ろうとして捻出した言論闘争の刃、それこそ、マスメディアであった。


 その後、ブルジョアジーは「公」権力を担うようになった。そうすると、マスメディアは両義的な存在になる。なぜなら、マスメディアはそもそも、ブルジョアジーが作った「公」権力の抑圧への対抗装置、つまりブルジョアジーの利益拡張装置であったにもかかわらず、今度は自らが「公」権力(=封建専制ではなく、国家の権力)を握ることにより、自らが作ったマスメディアの刃が自らに向くことになったからだ。


 ブルジョアジーは、彼らが築き主人公となった国家=「公」権力に対してもその刃が向けられるということの可能性、つまりその刃によって彼らの国家が攻撃され改造されるということの可能性を、開いたままにした。こうして、マスメディアは新たな役割を与えられる。つまりプライベートな場も「公」的な場も含めた《社会》を分節化し、生成させるものとして。


 ところで、《社会》を分節化させ、生成させるって? マスメディアがそもそも《社会》のなかにあることを想起してほしい。そうであるならば、マスメディアはその外部から何かをもってくるというより、むしろ《社会》のなかのできごとを分節化させ、それによって《社会》の輪郭を描き出していく。もっと平明にいえば、できごとをメディア自身が企画し、構成するということになるだろう(※たとえば、8月15日にマスコミが靖国神社の前で待ち構えて「参拝は公人としてですか、私人としてですか!?」などと問いかけるあの儀式……あの政治的儀式は、政治家の行為を分節し、報道するマスメディアなしには成立しませんよね)。


 だからこそ、(1)マスメディアは、どのような《社会》を創るべきか=どのように「公」権力とプライベートな場のバランスをメディアがとり、《社会》を再‐生成させるべきかを思慮に入れて自身を語るべきだし、(2)私たちも、マスメディアを自らとは関係ないものとして考えるのではなく、自らをとりまく《社会》を織り上げるメディアのとるべき形を考えるべきだと思う。また、《社会》が国家との対として=プライベートな場であるとして考えられていた時代から、国家とプライベートを含むものとして考えられる時代になったことは先程検討したとおりで、ゆえに、「マスメディアはプライベートなリアリティを生成する」わけでもありますから、やっぱりマスメディアを、私たちは自らをとりまく《社会》を織り上げるメディアとして、そのあるべき形を考えるべきだと思う。


  • メディアの現状――広告収入によって駆動するコミュニケーション


 その上で問題にしたいのは、産経側の《社会》を織り上げるその〈そぶり〉である。ホリエモンの一件以来、考えさせられることが多い。産経側はどのような〈そぶり〉で《社会》を織り上げようとしているのか。産経新聞の社説(2005/2/18)から、それを見てみよう。

いうまでもなく産経新聞は「正論路線」に立脚している。これは冷戦時代のさなかに策定された「産経信条」(昭和四十五年)の「民主主義と自由のためにたたかう」にもとづき、西側陣営にたって、社会主義国イデオロギーや軍拡路線、非人間性を批判してきた路線を指す。

http://www.sankei.co.jp/news/050218/morning/editoria.htm。以下同じ。


 いかにも格調高く聞こえる。ただし、これには一定の留保が必要である。新聞がコミュニケーション装置である以上、そこでコミュニケートされたこと=「産経信条」とは、「新聞社があらかじめ話そうと用意したこと」でも、「読者があらかじめ聴きたいと思っていたこと」でもなく、新聞社が「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」によって創作されたものではないか。なぜなら、自分のメッセージを聞いてもらおうと、あるいは部数確保の為に、広告収入確保のために、そういう《産経的な》言説を欲望する読者を想定して物を語り、ジャーナリズム活動するわけでしょう。


他者の欲望と広告収入を想定し、演技的に振舞うこと自体を悪いこととはいわない。それによって偽の《社会性》が織り上げられるといって批判しようとも思わない。しかし、問題なのは《産経的な》ふるまいが反動的なナショナリズムを吸い上げ、国家の欲望と共犯する事ではないか。産経新聞の社説は続く。

[…]堀江氏はAERA誌で「あのグループにオピニオンは異色でしょ。芸能やスポーツに強いイメージがあるので芸能エンタメ(注=娯楽)系を強化した方がいいですよ」と語り、編集部も堀江氏は正論路線にあまりお金はかけたくないという、との解説を付記している。


 さらには「新聞がワーワーいったり、新しい教科書をつくったりしても、世の中変わりませんよ」と語る堀江氏の発言を「氏特有の冷めたメディア観」とたたえてもいる。しかし、この特集記事にあふれていたのは「エンタメ」「金融・経済情報」といった類の言葉ばかりで、新聞づくりの理念はうかがいしれなかった。


 経済合理性の観点からメディア戦略を構築しようとしているだけで、言論・報道機関を言論性でなく、むしろそうした色あいをできるだけ薄めた情報娯楽産業としかみていないのは驚くべきことといわなければならない。


 「経済合理性の観点からメディア戦略を構築しようとしているだけで、言論・報道機関を言論性でなく、むしろそうした色あいをできるだけ薄めた情報娯楽産業としかみていない」というが、こう言える根拠は何でしょうか。むしろニュース・言論・報道こそ、視聴率をとるために、経済合理性の観点からメディア戦略を構築してきたのではないか。有名で、かつありふれた戦略としては、ニュースを現場の実況を交えて報道する手法。あれはもともと、そういう報道をすると視聴率をとれることを言論機関が「学習」したために常套手段となった手法だったではなかったか。報道番組にタレントや女子アナを起用することだって、どうして経済合理性の観点でないと否定できない?


 そして、そのような批判をしているのが(「正義の朝日」を批判する)産経グループであることに注目しよう。わざわざAERA=「正義の朝日」とホリエモンをダブらせて批判した、ある意味至極《産経的な》ふるまいの結果、産経グループが何を招いてしまっているか、どのような《社会》を織り上げてしまっているかを考えるべきでしょう。

  • 「正義の朝日」が正義であるゆえに、その内容を考えずに、「正義の朝日」という〈ノリ〉=革新的であるという〈装い〉に対し、過剰に反抗のそぶりをもよおす結果、差別的な言説をもよおすことに何の躊躇も感じない《社会》を織り上げること(※2ちゃんねらーを想起せよ。なお、革新的であること、開明的であるという〈ノリ〉に過剰反応して反動的な言説を駆動させることは、近年のジェンダーバックラッシュを想起せよ)。
  • 放送の両義性、歴史的重層性を「国民の知る権利の確保」=「経済合理性」の彼岸にあるもの、などという言葉でコーティングすることで、知の欺瞞を招いていること。その非妥当性は上で述べた通り。ニ分法で括れるほど簡単なものじゃないんだってば。ついでにいえば、そのように編制された知の欺瞞が「公」権力に迎合的な放送政策・マスメディア自身の自己検閲を招き、ひいては自発的に翼賛体制へとなだれこんでいく戦前の歴史を忘却させる。


 いまこそ私たちは、マスメディアが私たちの《社会》性と不可分いったいにあること、そしてどのような《社会》を共に織り上げるべきか、考えるときではないだろうか。