脱線事故の語られ方

 私は端的に、違和感を感じてきた。脱線事故原因の「語られ方」にである。事故当初早い段階で「急ブレーキの痕がある」ということから考え、運転士は安全確保をしよう(あるいは、制限速度を守ろう)とする意図があったのではないかと考えたからだ。


 急いでいたことはわかるにしても、それならばなぜ制限速度ギリギリの「120㌔」でなく「100㌔強」だったのか? つまり、カーブが少し先にあることは頭の中に入っていたからこそ惰性走行をしていたことが想像できたのであり、急いでいる中にも《冷静》、とは言わないまでも安全を確保しようとする《善き意図》はあったのではないか? こう思ったとき、「ミスが多い、懲罰が多い」ことから「運転士としての適性に欠ける」というクレイムを導く事故当初のマスコミ報道に、隔靴掻痒の感を覚えていた――何かを掬いそこねている。


 むしろことはあべこべで、この運転士は(ブレーキを踏むタイミングが遅れた+かなりきついブレーキをカーブ手前でかけたため、車体に大きな遠心力がかかり、事故を招いたということに関しては「認識不足」という謗りをまぬがれないとしても)、他の運転士と特別変わるところがないのではないか、ごくごく普通の運転士だったのではないかと感じてしまった。


 だったら過去にオーバーランをするのか? といわれたら、私は「それってけっこう日々起こりうることなんじゃない?」と言いたい。第一、一年に一・ニ回ぐらいは「××電車が駅を飛ばしてしまって」的なニュースを聞きません?*1 それでも今までこんな惨事は起こらなかったわけで、だとしたらこの運転士はやっぱ、言われてたよりもフツーなんじゃないかと思ってしまったのですよ。第二に、首都圏でオーバーランがおこらないのは、おりこうにもおこらないように、最新の設備が組まれているからだと答えたい。たとえば山手線。あの電車は、停止位置オーバーを防ぐために、電車の現在位置と速度を計算するシステムが組まれているのか、運転士がブレーキを操作しないでも勝手に(!)ブレーキの圧が上がって所定位置に止まるようになっている。私がいつも巣鴨から新宿まで先頭車両に乗って運転台を見ていると、この装置が働いてしまう運転手と、働かせずに止めることのできる運転手は、はっきり言って半々だという印象。 


 もちろん、遺族の感情を逆なでする意図はもうとうない。しかし、自分の中の「掬いきれなさ」を整理するために、今回の脱線事故の原因がどのように語られてきたのかを整理したい。


 今回の事件の「語られ方」は、大きく言って2系統あったと思う。一つは運転士の器量のなさを軸に語られるもの。当初から運転士の懲罰歴に言及し、器量のなさをほのめかすタイプの語りをするもので、事故から2日後に「ゲーム脳」と報じたことをピークにするもの。


 もう一つの系統は、事故の背後に組織的な問題があるということを基軸にするもの。ただし水曜日くらいまでは、「夜勤が2日続いていた」こと、「ダイヤ至上主義」の体質を夕刊紙が報じても、「それって、現代の社会ではどうしようもないことなんじゃないの? 夜勤にしても今までそれで問題は生じなかったんだから、やっぱり問題は運転士でしょ?」という雰囲気だったように思う。


 転機がおとずれたのは、「日勤教育」の存在が明るみになってからだ。運転士が「日勤教育」を過去に受けていたこと、「日勤教育」がらみで自殺者が出ていること、その背景には遅延行為が給与の増減に事細かく関わっていることが言い立てられた。

日勤教育①→-http://www.chunichi.co.jp/wtok7/050427T1017003.html
日勤教育②→-http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050427/mng_____tokuho__000.shtml
運転士も調べられていた→-http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/archive/news/2005/04/28/20050428dde041040063000c.html


 この効果は二つあったと思う。まず、運転士の器量のなさを軸にした論調を失調させた。運転士の器量のなさは彼の懲罰歴を前提にしていたが、その懲罰=「逸脱」こそ、ダイヤ至上主義によって構築されたものではないかという疑いがでた。つまり、器量のなさを言い立てる前提が崩された恰好になった(よくよく考えれば、オーバーランと居眠りという懲罰の原因自体が、これで消えるのではないが)。

 
 次に、その「逸脱」の構築とそれへの制裁への言及が、事故当日の奇妙といえば奇妙な人々の動きを一挙に説明する道具として使われたことである。オーバーランの距離を短くしてくれ、虚偽の報告をしてくれという運転士、その頼みを受け容れる必要もないのに虚偽の報告をした車掌(この42才の車掌は、いままで理不尽なほどの懲罰を見て、同情したのだろうか。想像の域を出ないが*2)、速度100㌔で走る運転士、指令室からの無線に出ない運転士(受け答えたら速度を下げなければならない。しかしそんなことしたら懲罰の対象。日勤教育うけたくない! そして幸か不幸か、無線は「通信状況が悪くて」と言い訳ができる!)。


 社会的に構築される「逸脱」に、いともたやすく順応してしまう(というか、せざるを得ない)人間。人間の《主体性》を懐疑する社会学が好きそうな論旨の展開が、展開されている。これからこの事件は、どのような語られ方をするのだろうか(4/29 午前2:00書く)。

*1:証拠です。これだけオーバーランが騒がれてるときに、やっちゃうんですよ。それもこの会社線で→http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/archive/news/2005/04/27/20050427dde041040027000c.html

*2:しかしこの発言は、私の読みを裏書しているように思えてならない→http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050428dde001040045000c.html