マスメディア「の」リアリティ


「飢え」=応答可能な他者の「希少性」を構造的に生み出すマスメディア的な情報空間から、応答可能な他者を見いだすことが容易なインターネット的な情報空間への移行――『新世紀エヴァンゲリオン』に顕著な《オタ現象》を流行らせ、かつ衰退に追い込んだのは、情報空間の磁場が以上のように移行したからではないだろうか。

アニメージュ』などの専門誌は、早い段階からエヴァの爆発的流行を、マスメディア的な情報空間と関わらせて論議していたように思う。いわく、専門誌などがエヴァの登場と展開をフォローアップする中、テレ東というローカル局においてのみエヴァが受容できるという「飢え」の構造がブームに一役買っている、と。


「飢え」の構造が支配する世の中では、話が通じる人と対話するために様々な本を手にとって共有知や歴史を探り出そうとする。どのようなアニメも前のアニメの同一性と差異から評価できるはずなのに、エヴァを語る空間においてはそれ(=共有知・歴史の共有)が顕著だったように思う。題字・魚眼レンズ・エフェクト・登場キャラクター……エヴァを構成するパーツが既存の名作との同一性において、アホらしいまでに比較されたのは、その証左である。


しかし、どうだろう。『SEED destiny』はそのような語り方をされているだろうか。