精神病的自分探しとブログ

 電話と映写機によって、音声と映像が「リアル」に抉れるという認識は、文字によって「リアル」を現象させるという方法を旧来のものにした! それ以来「リアル」は文字のように意識的・理性的に綴るものではなく、電話と映写機によって構成される音声と映像のリアル――図と地の「区別」、0と1の「区別」を、人知の及ばない領域まで極めること――によって遂行される。


 しかも厄介なことに、私たちの「リアル」は時と共に流れ去ってしまう「リアル」なのである。つまり、その「リアル」は動きを含んだ生成であり、それは到底文字を書くことによっては追うことができない。「リアル」は、動きそのものを含んでいる。

 
 ゆえに文字では「リアル」を追えない。追おうとすると、この私がこの私であるという「リアル」はすぐ逃れてしまう。――それでも汝、ブログを書き付けるか? 


 自分探しを文字で遂行すること、ブログに書き付けること。それは逃れゆく生成を逃れまいとキーボードと格闘し、たえず負けを運命付けられる。それでも書き続けるのなら、それは精神病の罹患偏執癖を免れないのではないか?

 
 お前は何を追っているのか? 無限級数を追っているのか?