2次面接(注:めずらしく長文です)


中高一貫校(国語科)の面接が終わった。面接では、相手に私を知ってもらうことがメインとなるわけだが、きょうの面接では、私自身が自分の気づいていなかった《心の深層》に気づかされた。


その質問はこんなふうに始まった。「好きな作家は誰ですか」


この「好きな作家は」的な質問ほど、自分にとって避けたいものはない。なぜなら私は、センター試験はじまって以来、G大国語科史上最低点*1教育学部の国語科に入ったという伝説をもつ*2ほど、国語が嫌いだからだ。小説よまない、現代文できない、もちろん思い入れのある作家などいない。そしてこの国語科という文化集団は、きまって挨拶代わりに「好きな作家は」と聞いてくる。つきあいきれない。


今までは「そんな人いない。そもそも国語や文学なんて嫌いだ。わたしは『そんな嫌いな国語がどうやったらモノになるか』を研究しにきたのだ」と、ずっと言い張っていた。しかし面接ではそうはいかない。基本的面接では、問いをずらすことはタブーだったらしい。「いままで国語や文学が嫌いで、できるようになるために国語科を志望したため、とりたてて思い入れのある作家はいません。しいて言えば内田樹です…」


この瞬間、あきらかに後悔した。面接官が納得していない。そこで私は、いそいでつけくわえてしまった。「小説家では江國香織が好みです…」そして次の瞬間、トドメを刺された。「江國香織のどのあたりがいいのですか、お聞かせください」


…だから考えたことないんだってばぁ!!!! 


彼女の作品が好きなのは、端的に「眠くならないから」なのだ。しかしこの本音はバツだ。だいたいこういう質問をする相手というのは文学作品をよく読んでいて、自分と私の位置どりを計測するためにそういう質問をする。そしていま私のいる場は「国語科採用2次面接」。眠くならないからなんてうっかり言ってしまったら、それこそ国語科としての素養が疑われてしまう。


「…ええっとぉ、大江健三郎ほど文章が硬くなく、表現が軽いからです。あと、人と人、人とモノの関係性を細かく描いている点が好きです」……自分でツッコミをいれるのも何だが、何だこのユルすぎる、形容詞の多い言い方は(苦笑)。国語科ならもっと名詞や抽象概念を使って、客観的に云わんかいボケ。そして「国語科」で「江國香織」かよ。もし国語科が言語文化に通暁している点で文学的なセンス・エリートといえるならば、この〈答案〉はあまりにもセンスがない。この作家は大衆受けしすぎてて、エリートとして自分をプレゼンできないから。


…そうですよそうですよ。私は所詮、言語文化の伝道師にはなれませんよ。こころの中は自暴自棄の嵐。この面接には勝てない。そう思いつつ次の質問が来た。「江國香織の魅力を生徒に伝えるには、どうしますか」。ラッキー! ここは「教材価値」で逃げ切れる。。。私はすぐさま《防戦態勢》を敷いた。しかし効かなかった。しこたま江國香織の教材価値を話した後、「いや、私はどうしてあなたが江國香織を好きなのか、そこを知りたいんです」と面接官。あくまでも私の内面をまさぐるという方向性で。


たしか私はこんな答えをしたと思う。


江國香織は関係性の描写がうまい。というより、その関係性に閉塞していくゆえに私は好きなのだ。バブル絶頂の頃に思春期を迎え、関係性をきれいな記号で埋め尽くす江國のエクリチュールは、まさにバブル文化=消費社会マンせーの私の世代にとって、居心地がいいんですわ…。あぁ俗物×2.みごとに外部のない消費社会に一般ピープルと住んでいますとも…ん?


いや、それは嘘だ、それこそ、言説に語らされている。次の瞬間、私はそう思い至った。たしかに江國香織はすき。読める。よんでて居心地がいい。しかし私は、外部のない消費社会に安住して満足してはいない。思春期のあのとき、感じたはずだ。それはオウムで綻びを見せ、9・11で完全に失墜したと。私たちはポスト消費社会を可能にする知を見いだすべく、「ここ」にいたかったのではなかったか?


そのとき、方針が見えたのだった。

*1:200点満点中78点

*2:自己内伝説である(笑) ちなみにどうしてこの点数が伝説になりうるかというと、この大学の2次試験は「国語のみ、1000点」だから。国語の比重が高いんです