言説を分析することの意味


夏学期最後の論文検討会が終了。渡米前の方による研究発表で、●●の誕生、といった御題。ある言説の配置が「ある」ことと、ある言説の配置が「キク」ことの違いについて、皆で検討する。


書いている私自身、いままでたまさかこの違いに悩んでなかっただけで(←ハイ、勉強不足!)、ある言説の配置が「キク」、つまりある言説の配置が私たちのリアリティや社会的生にどうフィードバックなり影響なりをもたらすことを論証するか、もたらす/もたらさないの境界は何なのか、考える。


歴史的資料を(断片的でなく、ありうる限り総花的に)当たると、こうとしか言いようのないリアリティができてしまうことがある。上の一連の問いは、自分の見てきたリアリティをどう表現するかとも重なってくる。


解決の方法は、いくつかあるように思う。たとえばある言説が「どのような場面で」「どういった行為と共に」創出されるか、言説と不可分一体の《実践》を描くという方法もあろう。日記などを調べたり、具体的なふるまいの形式に言及したりという、《オーディエンスの受容》を描く方法もあろう。そもそもフィードバック云々があったか? という問いを立てず、他領域でも類似の言説の配置が存在することを論じ、どうしてそうなのか、当該領域では(他領域と異なり)いかにその配置を成立させているのか*1という方法もあろう。ある言説の登場を特定の制度的・社会的背景に落とし込んでも、一定の説明力は担保される。これも一つの方法だろう。


もっとも、おそらくそのどれもが、論者の想定する「物語」を密輸入することにはなる。論者の背後仮説と、一般に言われているものだ。つまり、ある言説が「ある」ことだけを論証すればあまり恣意性を問われないが、ある言説が私たちに「キク」その有り様を説明しようとすると、とたんに恣意性が問われだす、といってもいい。ムズカシイナー。

*1:セカンド・オーダーの観察がどのように成立してるのか、と師匠は表現されていた。つまり、どのようにある現象が対象化されているのか、そのモード自体を問うということなんだろう